「光と風と夢」 　「レクイエム　─�ｹ小平に」　 「眠りが襲ってくる前に」　　「オーメン」　　「一秒ごとに」　　「私」　　「誰かの夢」　　「悲劇のような」

「言葉は」　　「何もない」　　「風は」　　「帚木」　　「彼と我との滅する所」　　「少しだけ顔を歪めて」　　「揺りかご」　　「忘却の水面に」

「うたかたの日々」　　「言の葉が風に散る」　　「国境」　　「死海と帆船」　　「渚にて」　　「港」　　「遠い木霊」　　「二つの影」　　「波紋」　　「日射し」

「私を定めないで」　　「鵺の歌」　「古い家に彼を訪ねて」　「文」



「光と風と夢」

パイナップルの匂いを運んで

潮風は強く

空は一枚岩の青で

限りなく深い

砂浜は君の肌のように白く

君のように大人しい

僕は今日三度

この海を泳いだ

ナポレオンフィッシュという

黙然として

目だけ鋭い

海の詩人と

君は憶えていないだろう

この島のことを

五十年

五十年も経ってしまったから

かって君は僕のものだった

君の島に

日々何度も訪れたものだ

波を蹴り

水を切って泳いだものだ

波の下から見る太陽は

まぶしく歪み

僕の瞳を慰めた

五十年

あれから五十年も経つのか

もうそれら風景は

僕のものではない

失われた風景は

僕の心の内で常に

漂い続け

胸を冷たくする

漂い続け漂い続け

そして光は溢れ

風は逃げ

夢は閉じていった


　　　　　　　　　１９９７／２／８




「レクイエム　─�ｹ小平に」

見渡す限り大地は黄色く

流れは鮮血のように赤い

彼の姿が見えた

彼の小さな後ろ姿が

日射しは乾いた冷たさで

音もなく空気を揺るがし

彼の姿を

陽炎のようにふるわせる

私は何か叫ぶべきなのだろうか

彼が彼方に消えてしまう前に

手遅れになってしまう前に


大地が揺れている

しかし本当に大地が揺れているのか

単に私の目眩によるものなのか

そう訊ねても　彼は答えてくれない

　　　　　　　　　　　　　　　　１９９７／２／２５




「眠りが襲って来る前に」

眠りが襲ってくる前に

僕は君に言わなければならない

僕達がなくしてはならないもののことを

それは言葉に出来ないほど傷つきやすく

手で触れられないほど実体がない

僕は君に向かって

そのもののことを言い続けなければならない

その正体が何なのか

わかることも出来ぬまま

君の姿が見え続ける限り　口を開いて

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　１９９７／４／２




「オーメン」

光が走る

36度に傾く闇の中を

白い腕が伸びる

指のない手が

消えかかった魂へと差し出され

夏は終わる

　　　　　　１９９７／８／３１




「一秒ごとに」

あるいは死に

あるいは生きる

一秒ごとに　全てが

消えてしまったかのように

全てが

変わってしまったかのように

私は私

あなたはあなた

ただ今のうちは　だがいつの間にか

そして一秒ごとに…

　　　　　　　　１９９７／１１／１７




「私」

私

私ガ居ル

私ガ私ト言ッタトキ

私ハ私デアルコトヲヤメ

私ガ私ヲ思フトキ

私ハ私ヲ遠ザカル

夢ノ谷ヘト下リテユキ

アリエザル私ト出会フトキ

私ガ私デアルコトハ

モハヤ避ケガタイ残酷ナ事実トナル


私

私ハ居ナイ

私ノナカニモ

誰カノナカニモ

誰カノナカノ私ハ

私ノ顔ヲシタ他人

私ノナカノ私ハ

他人ノ顔ヲシタ他人

私ハ

ドコデモナイ場所ヲサマヨフ　私デアリエザル他人

誰カノ顔ヲシテ　誰カノ後ヲオフ

私ノ顔ノ裏側ニ　見エザル化粧ヲホドコシテ

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　１９９７／１１／１９




「誰かの夢」

意識は揺らぎ

踏み出す足に感覚がない

目の前の空気は、ふいに密度を増し

私を傍らへと押しやる

誰かの夢に、私は紛れ込んでしまったのか

それとも

誰かが私の夢へと押し入って来たのか

何かを払いのけようと

伸ばした手が

誰かに触れた

誰かに

　　　　　　　　１９９７／１１／２４




「悲劇のような」

悲劇のような

あるいは喜劇のような

ありふれていて、それでいて特別な日々の中で

私は私自身の

いや、私という誰かの

ささやかな足取りを見つめている。

多くの人々が、

私の耳元で囁き続けてきた

ある時は呪詛の言葉を

ある時は偽りの声を

だが、私は耳を塞ごうとはしなかった

それらの言葉を受け入れた

そしてその上で自らの言葉を何よりも何よりも思い、守り続けてきた


悲劇のような

喜劇のような

一秒ごとの転換を見せる人生の中で

私は私から逃れ

同時に私に近付こうとしている

それは悲劇の前触れなのか

喜劇への傾斜なのか。

何かが生まれ

何かが消える

一秒ごとに繰り返される

悲劇の中で

喜劇の中で

私はいくつもの仮面をかぶり

観客の前で

道化芝居を演じてみせる。

　　　　　　　　　　　　１９９８／２／１９




「言葉は」

言葉は

言葉でないものを語る。

例えば、あなたの心を、

三日前の空の色を、三十年後の光景を、

海を、雲を、風を。

しかし、言葉について私が語ろうとする時、

それは色あせた記憶のように

彼方へ、はるか彼方へと

遠のいてしまう。

言葉。

おまえを捉えようと伸ばした手から

おまえはいつも逃げ去ってしまう。

おまえを掬おうとした手のひらから

おまえはいつもこぼれ落ちる。

水のように、雲のように、風のように。

　　　　　　　　　　　　　　　　１９９８／２／１９




「何もない」

手をかざす

私の掌にだけ

陽光は当たらない。

氷点下273℃の自我。

　　　　　　　　　１９９８／２／１９




「風は」

透き通った朝

羊達と共に目覚め

紫の風を吸い込む

風は葡萄の味がする

幼い日の夢と同じように


風は、と

再び問いかけようとして

私は何故か口を閉ざす

紫色の風は駆ける

私の良き日々の思い出の中を

しかしそれは喪われた風

今、風は私の頭の上を吹き抜ける

今日の風を

私は見ることが出来ない


私が見るのはいつかの風、どこの風、かっての自分

手を伸ばしても届かないもの

消えてしまった匂い

　　　　　　　　　　１９９８／２／２０




「帚木」

求める先から言葉は

頭の中を駆け回り

紙の上を泳ぎ回るのだが

それでどこかにたどり着けた例しは

ついにないのだった。

遠くに手を伸ばせば

近きものを見失い

近くのものを手にしようとすれば

いつの間にかそれは消えてしまっている。

私の目にしているもの

それはすでに失われている風景だ。

私が語る言葉

それはすでに存在しない物事を

語る。

　　　　　　　　　　　　　　１９９８／４／２９




「彼と我との滅する所」

彼と我との滅する所

時は片目で見た風景のように淡く

空間は白い歯でもって断ち切られる。

殻を離れた我は

彼方の崖の上空へと舞い上がる翼を得て

東風に乗り

まだ見ぬ場所へと

私の永遠、彼の永久へと

昇華されていく。

耳に聞こえる

弦のうねり

誰かの囁き。

引力を失った自由が私の指先を遠く離れ

誰かの瞳の中へと……

　　　　　　　　　　１９９８／７／１７




「少しだけ顔を歪めて」

片眼を閉じて見た風景の中に

私に微笑みかけてくるものを探す。

例えそれが悲しみであったとしても

死神であったとしても

私は彼らを受けいれるだろう。

私は彼らに手を差し出し、

こつつぶやくだろう。

「ただいま」と。

我らが歓迎してくれるかどうかはわからない。

「おかえり」

とは言ってくれないかも知れない。

それでもいい。

私は行き着く場所に行き着くだけだ。

帰る場所に帰るだけだ。

　　　　　　　　　　　　　１９９８／９／７




「揺りかご」

私を支えながら

ゆっくりと空気は変化する

青の領域から光の世界へと

目を覆うグレーの布を払い

意識の流れに沿った早さで

遠い日の記憶のように

薄曇りの風景に囲まれ

誰かの手の中で

そっと目覚めることを夢見ながら

私は網膜の奥を見つめていた

　　　　　　　　　　　　　１９９９／２／２２




「忘却の水面に」

忘却の水面に

浮かんでは消える

数々の悲しい夢よ

私は御前の中に溶け込んでしまいたいのだ

目に見える全てのものをなくし

考えるということさえ放棄して

御前の体に顔を埋めてしまいたいのだ

言葉からも

文学からも

かっての私からも遠い

掌の宇宙へと

逃れ去るために

　　　　　　　　　１９９９／３／８




「うたかたの日々」

古いフィルムの中に

閉じこめられたように

過ぎてゆくこの黄色い時間の中に

人が生まれ

街が育ち

そして僕が存在した

それは一秒ごとに現れては消える

永遠の積み重ね

時間を浮かべた影

傾きつつある明日の流れ

記憶の堰が断たれ

水没した昨日

天球は孤独にさまよい

全ての光は大地へと呑み込まれ

世界は視力を失ってゆく

　　　　　　　　　　　１９９９／３／８




「言の葉が風に散る」

言の葉が風に散る

引力に促され

揺れ動く水面へと

一枚、また一枚

何かを求めて天へと手を伸ばす枝に

泳ぎ疲れた時間が宿る

蒼穹は打ち鳴らされ

翼を持つ生き物は籠の中で舞う

波が白いスカートを翻して駆けてくる

まるで誰かのように


東の空

レンズは徐々に焦点を結んで

真っ白なゼリーの上に

人々の姿を映し出す

天が割れ、破片は大地に降り注ぐ

オリーブの香りが口の中で夕闇のように漂う

心は水のように純度を増し……


意識の外に、瑞々しい草原は拡がる

言の葉の散りゆく中で

我々は生きている


我々は生きている

　　　　　　　　　１９９９／３／８




「国境」

国境

川はとぐろを巻き

うめく

それが解き放たれれば

我々はもう終わりだ

赤い線が閃き

海馬が決壊するのを私は怖れている


水の上

白いヨットは滑り

波を傷つけ

二つの領域を危うくする


そして私は

目覚められない

　　　　　　　　１９９９／６／１




「死海と帆船」

死海の上

白い帆は滑り

歴史は傾く


胸を貫く雪の棘が

水面に浮かぶ人々の

影を置き去りにして

夏は告げられる前に終わる


塩を含んだ風が

青く暗い立ちくらみへと人々を誘う

波打ち際に

倒れる幾つもの心臓


開放された朝に

渚を傷つける数十億の尖った爪

失われた希望の痕跡


死海の上を

滑る帆船が

水平線よりこぼれ落ちて

短い季節が打ち壊され

眠りの時が告げられる

　　　　　　　　　　１９９９／７／７




「渚にて」

耳の中をくすぐる泡によって

視界は揺れ動き

見知らぬ風景を

意識の波打ち際に

浮かび上がらせた


白い帆が

水平線の下へと沈む

君が差し伸べた手から

波達は逃れ

短い呼吸の間に

言葉を挿み込む


そして詩が生まれた

　　　　　　　　　　１９９９／７／１１




「港」

25年もの間

一艘の船も訪れず

朽ちるにまかせた港

海はその神経質な指先で

疲れ果てた爪を研ぎ

どこかへ到達する日々を夢見ながら

無意識を漂う

かっては手つかずの朝の光のように

澄み切っていた感情が

今は鈍く

きしむ

ここにはもう誰もいない

港から街へと続く道の途中に

置き忘れられた雪が

一面に広がる場所がある

そしての場所のお陰で

港は何とか生きながらえているのだ

25年と数十年の

孤独に耐えながら

　　　　　　　　　　１９９９／７／１５




「遠い木霊」

私の声は鼓膜を離れた世界に届かない

それはただ遠い木霊として私の瞳の奥に落ちてゆくのみ

ふとかけられた言葉に

私の心は揺さぶられることはなく

私の思いに

世界が反応することもない

遠い木霊の中に

癒されがたい響きがあり

繰り返される声の内に

過ぎ去った日々のかけらは泳ぐ


これは誰の叫びか？

　　　　　　　　　　１９９９／１２／２




「二つの影」

指先に触れるたびに光は弾け

二つの影の方へと翼を畳みつつ舞い降りる

孤独と孤独の生み出す二つの寄り添う影は

言葉を失った清澄な午後の息吹の中を揺れながら進んでゆく

光景は過去の記憶のように

歪曲した調整を保ち

瞳の奥と、削除された思考回路の一部分で全ては完結する

まるで展開を拒んでいるかのように寄り添う影の指先で光は弾け

午後は孤独な瞳をそっと閉じてしまう

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　１９９９／１２／８




「波紋」

波紋は眼球を優しく撫でながら遠くへと退いてゆく

全ての音が停止する

重力は肩の上を無数の足で歩み

積み重ねた経験は視床下部から滴り落ちて

もう一つの別な波紋を舌の先に押しつける


やがて冬が訪れ

波紋は円を描いたまま冷気の下で凍りつき

ぽっかり空いた中心に

無数の文字が染み込んでくる


意識のシャットアウトが起これば

凍りつく波紋が宿命の刻印のように輝き

両の目をくらます


土中から伸びた

実体のない二本の腕が

孤独な心象風景の魂招ぎをしている

ここに

切り離された曖昧な意義は

死に場所を求めるのかも知れない


目を閉じれば

波紋がいつでも心の隅の冷たい湖面を移動する


鬱々たる吐き気の中にあった小さな安らぎを破壊するほどに

激しく激しく

波紋は湖面を移動する

　　　　　　　　　　　１９９９／１２／８




「日射し」

葉脈を伝い

滴り落ちる光の柔らかさに

まぶたを通し

過ぎゆく一秒一秒が

午後の日だまりの中で

色づいてゆく

儚げに揺れる梢の

微かな息吹の中に

今日という一日が

そっと封じ込められてゆく

木々の囁きに

そして優しい日射しに

私のこの生命は声と輪郭を授かり

私という一瞬は絶えず変化を続けながら

緑色の大地に

今も影を刻んでいる

　　　　　　　　２００１／１０／２



「私を定めないで」（新川和江 「わたしを束ねないで」へのオマージュ 〜詩というより警句的に〜）

私を定めないで

特定の言葉の中に

固有の流れの内に

私は「今ある」という状態においてのみ「ある」もの

そうでしか「ありえない」もの

推理小説の名探偵達でさえ

私を読み解けはしない

　　　　　　　2016/1/31



「鵺の歌」

そこには「人」しか存在しないはずだ

だがそこに「人」の姿はない

実態のよくわからない「総体」が我が物顔をして居座っている

そうして想像力のない「それら」は得意気に口を開くのだ

「わかっている」と　

　　　　　　　　2016/5/2



「古い家に彼を訪ねて」

古い家に彼を訪ねた
陽はまだ高く
主をなくした季節が雲の上でまどろんでいた
我々は遠い日々のことを語った
わかり合えぬまま過ぎた歳月と
消えかかった足跡のことを

いつかの彼の言葉と螺旋状の記憶が
私の中にはまだ残っていた
三十数年を隔てて
繰り返されるフーガのように
それらは波立った

いくつかの記憶は
私の心を傷つけ
今も傷つけつつある
波を裂きゆく小舟のように

我々の話はあてどなく尽きることもなく
ただ互いに別々のことを語っていた

そしてふいに沈黙が訪れた
私は右目で彼を見つめ
彼は左目で私のことを観察していた

我々はそれでいながら何も見てはいなかった
違う言葉で違うことを語った後で
我々は和解しないという和解へと辿り着いた

あるいはここで彼は永久に足を止めるかも知れない
そして私はここから再び歩み始めるのだ
宿命そのもののように
この家と共に

古い家は黙って立っていた
今はもう誰のものでもない家だ
そして私は縁側から
果てしない庭へと降りていった

　　　　　　　　　　　　　　2021/1/12




「文」

とおくとおく
ありとあらゆる道が絶えるほどの昔に
分かれたあの街の畔で
記憶の奥の裏側にある
誰かの視線を追いかけていた

定められたものがあるかのようなないかのような
誰にもわからないこの文の
先に触れる風景を眺めるように
触れるもの感じるもの、声、匂い、雰囲気、揺らぎの中に
目の前の景色は同化していく

いつか足跡を重ねて
誰かの待つあの場所へと
宛先の書けない便りを頼りに進み
答えを得ぬままの問いと
会えない視線のため息に
二人は自己を呪い合う

裂け目に落ちた日のことを思う
幾千もの筋書きから外れた暗闇を歩く日々
架空の仮定により
迫害は正当化され
虚偽が幅を増していった
いくつもの罪悪は
取り残された帝国として
患い彷徨う

あの日見つめた大地の先に
あなたの視線を探り当てたような気がする
どこからか分からぬ曖昧な視線
確実なる語らい
それは
この世を生きる苦しみの中の
数秒だけの揺るぎなき憩い
私が胸の奥で求めたもの
血液の中に綴られたもの

二人で歩いた距離の短さは
答えがないという答えの道を行く
困難さを象徴する
我が歩みとあなたの
頼りない寄り添いが
憶した歩幅の違いとして
胸に錐のように突き刺さる
気にせずにはいられない痛み
その流されぬ血の鮮やかさ
否定しがたい未来

そして
あなたはいくつもの色の中から
自分に似合うものだけを選ぶ
それが可能な者として
私とは隔たれた存在として
ちぐはぐな色合いの衣装しか選べぬ私とは別に

秋を秋色に冬を冬色に春を春色に夏を夏色に
ありきたりの色を自分のものに
はぐれゆく私を尻目に

翼を広げたあなたは
誰もいない空を行く
誰のものでもない空を
蒼穹の響きの中を
もう私の言葉は届かない
開けられないままの文
私はもうどこへも追いつけない
足を怪我したチーターのように

私は私の内面を見つめる
沈黙したままの火口
形を成さない文字
空気を振るわさない声

そうあなたはもう
いかなる花も咲かせない
少なくとも私のためには

　　　　　　　　　　2022/08/21



　　　　　　　　　去江与司厳選詩集