「雨における感傷の分析Ⅳ」 「青の間（ま）」 「初夏の思念」 「河在流 He zai liu （河は流れる）」 「音楽」 幻想スケッチ「春」 幻想スケッチ「岐路」
幻想スケッチ「雨だれ」 ショパン・前奏曲第15番「雨だれ」より 「ピエール・ブーレーズ」 「みずうみ」 「パペーテ 一九九五年九月」 「微かに」
「舟歌」 「わたしにはわからない」 「海へ」 「灰色の雨の中で」 「雪は舞っている」 「こんな雪の日に」 「風と雨の丘」 「レクイエム 武満徹に」
「非現実の悪夢」 「僕らは通り過ぎる」 「死、よりも深い安らぎ」 「対話」 「春は散る」 「最良の詩」 「水底で」 「私の中に」 「八月の色をなくした風景」
「草原にて」 「遠い叫び、遠い声」 「雨は降らせよ」 「私の場所」
「崩壊」
彼は何のために祈るのか？
彼の言葉を聞く者など
もう誰もいないのに
深い霧の中で
突き刺すような雨の中で
彼は何を思うのか？
それはここから最も遠い
殺意と虚無の空間
深遠を演じる彼の
許されざる空間
静寂の中の残忍な瞳
たおやかな笑みと
狂奔の笑い
全ては崩れ去った
我々はもはや彼に顔を向けることはないであろう
全ては崩れ去った
その十字架の重みを
彼は知っているのだろうか？
恐ろしくゆがんだ彼の顔が
雨に濡れている
１９９５／５／１６
「魔の季節」
真新しい緑が雨に打たれている
答えを出せないままの私はあなたにもたれかかっている
いくつかの魔の季節を通り透けて
私は今もなお存在している
それを実感しながら
果てしなく続く坂道の途中で
私達はふと足を止めた
行く当てをなくした小さな虫が
窓ガラスに自らの体を叩きつけている
そして私達は
失われたものたちのうめき声を聞く
１９９５／５／１６
「水辺にて」
水面を渡る風が
紫陽花の匂いを運んで来る
鳥達は互いに
アリアを交わし合う
ゆったりとした日射しが
ひんやりとした心に染みる
私は何をするでもなく
時が流れるのを見守っている
憑かれたように歩いて来た
これまでの道のりも
流され続けてきた日々も
今の私にとって
何の意味も持たない
あたかも清水で頭が満たされてしまったような
100％の純粋さが
私の為に
今、時を止めた
深く清き淵の底で
私は回り続けている
１９９５／５／２５
「一九八九年六月」
ある大きなものが崩れ去った
緑の風があたりに漂う
寒々とした日射しの中でそれは起こった
流された多くの赤と
厳然と立ちはだかった赤
それらは混じり合い
拒絶し合って、やがて消えた
八九年
十四歳だった僕は
青く、切り立った崖の上に立って
ぼんやりとそれを見ていた
西風が狂ったように
吹きすぎていった
それらは死の香りに
満ち溢れていた
何かが南の方へと駆け抜けていった
あたりは沈黙の力で歪んでいた
闇が訪れた
深い闇が
西風は止んだ
目に見えるのは
地平線の炎ばかり
やがてそれも消え
沈黙が全てをねじ曲げた
遠くの方から
こちらへと向かう
誰かの影が
ゆっくりと近づいてきた
僕は動くことも出来ず
時が過ぎ去るのを
ただボンヤリと
待っていた
１９９５／６／２
「雨における感傷の分析Ⅰ」
バイカル湖の湖底のように
深く深く私は沈潜している
バイカル湖の湖底のように
辺りは蒼く澄み渡っている
私が顔を上げると
乾いた雨のようなものが
ふわふわと浮かんでいる
幽かな光が
どこからか射し込んでくる
私の意識はそこで途切れる…
気がつくと私は
窓辺の机の前にいて
ぼんやりと外を見ている
どんよりとした空の下
葉の緑が異様なほど際だって見える
雨の香りが
わずかな隙間から入り込んでくる
雨が引き起こす感傷を
私は胸に抱え込む
闇が深くなり
ガラス細工のように冷たい雨が
私に突き刺さってくる
私は目を閉じて
深く沈潜する
全てが雨に押し流されてしまうような
幻想が目前をよぎる
遠い遠い記憶の波打ち際で
私は私を見つめている
雨における感傷の分析は
雨における感傷の分析にたどり着けずに終わる
１９９５／６／５
「雨における感傷の分析Ⅱ」
ゆったりとした午後の流れ
輝かしい太陽の響き
冴え冴えとした水の音
それらの豊かなる日々から
最も遠く
私は感傷を彷徨っている
冷え冷えとした雨が
私の顔に降りかかる
感傷の叫びは
うたかたのように儚い
昨日見た夢も
雨に消され
全ては押し流される
１９９５／６／５
「雨における感傷の分析Ⅲ」
雨は果てもなく降り続いていた
青く澄み切ったあなたは
限りなくあなたのままで
佇んでいた
容赦のない雨が
あなたを溶かすほどに
降り注いでいた
時が止まったかのような静寂が
辺りを支配し
際限のない流れが
感傷の渦へと陥り
どこかに姿を隠してしまった
サティの調べのように
ショパンの旋律のように
不確かな調和が
あなたを眠りへと誘い込む
雨に形を変えた永遠が
あなたの心に忍び込む
薄紫の光の中で
あなたは輝きはじめる
しかしあなたの悲しみは
少しずつ前進を続けている
憂いを含んだあなたの顔を
濡らし続けるものは何なのか
私にはわからない
１９９５／６／５
「雨における感傷の分析Ⅳ」
心象風景における雨は
信じがたいまでに透明で
雪解け水のように冷たいそれらの響きは
私の心を水素と酸素に分解する
それら全てが混じり合わさると
春が訪れる
うららかな光の流れと
しとやかな感傷の流れ
その二つの流れが
平行したまま過ぎ去ってゆく
私は何も求めようとはせずに
それらが行くのを眺めている
失うものなど何もなく
得られるものもまた一つとてない
心象風景の中の清らかな雨に
私は全てを託してしまった
１９９５／６／７
「青の間（ま）」
閉ざされている
何の光も見えず
何の音も聞こえず
夢はむしり取られ
知覚さえも出来ない
辺りは蒼い霧に包まれ
彷徨う者は数知れない
そんなこの空間
顔を覆う人々
耳を塞ぐ人々
それらの人を取り残して
物憂げに時は進む
私は声を出そうとするが
それは口を離れた瞬間に
無残に歪められる
ひたひたと近付いてくる足音
しかしそれにも実体はない
出口は見つからず
入口も忘れてしまった
何かが落ちてくる
あるいは
何かが落ちてゆく
突然
それまでの沈黙を破って
何かが響き渡る
ふと彼方に明かりが差す
誰かが去っていくのが見えた
１９９５／６／７
「初夏の思念」
夏蜜柑から染み出した
甘く涼しい思念が
曇りがちな空を
清涼な色彩へと変えてゆく
手のひらからこぼれた
春の名残が
東風に乗って
六月の海へと消えてゆく
心象風景における夏の中に
幼い私を見出した時
心の中で
新しい時代が始まる
胸の中に沈んでいた
夏の息吹が
今密かに声を上げる
１９９５／６／１９
「河在流 He zai liu （河は流れる）」
橋のたもとで沈黙していた河が
何かにせかされたように歌い出す
春の柔らかな風に乗って
歌は何処へともなく漂い去る
そして歌の消えた後で
何事もなかったかのように
河は流れ出す
遠き過去から
幾億を超す人々の
思いを乗せて
ただ河は流れていく
その思いを
決して他人（ひと）に語ることなく
全てが流れ去った後に
何が残るというのか
もう二度とは帰ってこないもの達よ
遙かなる記憶の彼方
もう存在さえも絶対性を失い
人間性も輪郭を欠いた
ある地点において
「それ」は色あせていく
そのものに言葉を与えるとするのなら
何が適当であろうか
あらゆる言葉はあるいは多くあるいは足りない
それらは帰らざる歴史とともに
永久（とわ）の別れを告げるのみ
かっては確固たり得た観念も
今は足場を失った
もし再び生まれ得るとしても
それは夢の中でのこと
無知とは悦ばしきことだ
全ては
時を経て消失する
知覚しうるものは何もない
それ故に
我らは無限を感じ、恐れることもない
今日流れる河の水が
明日は海に飲み込まれようとも
その日にはまた新たな流れが
私の目の前を過ぎてゆく
いつとも知れぬ昔から
無数の目がこの流れを見続けてきた
それら多くの観客の心へと
何かを囁いてきた河が
今、また沈黙を始める
私にわかるのは
私が無限でないという事だけ
河在流
１９９５／６／３０
「音楽」
遙かなる高みへと
この猥雑な世界から昇らせる
神からの恩寵物
それに体を預ければ
全てが生まれ変わっていく
想像を絶するエネルギーと
体を揺さぶる感覚的囁き
全てを捨てよ
そして音楽を絶対的に受け入れよ
何も考える事はない
我々の欲望などは取るに足りないもの
死も生も存在しない
存在するのは音楽のみ
１９９５／７／１
幻想スケッチ「春」
クラリネットの響きに誘われ
麗しい春の岸辺に赴いた
右には太陽の花
左には月の草
殺されたばかりの赤子の死体が
空に虚しく浮かんでいる
えぐり出された瞳（め）が
じっとこちらを見つめている
落ちかかった空と
崩れかけた大地
ゆるやかな風が
私を自死へと誘う
そんな甘悲しい春
１９９５／６／８
幻想スケッチ「岐路」
私達二人がその岐路へとたどり着いたのは
夕べの香りが断末魔の呻きをあげて
倒れ込んだその直後だった
右の通は死へと至り
左の道は行く先不明
遠くにある黙り込んだままの
地平線に目を向けながら
私達は行方に悩んだ
風は張り裂けんばかりに
叫んでいる
遠くで誰か狂ったような
悲鳴をあげる
真っ赤な月が
ボンヤリと傾く
それらのものに急かされながら
私達は行方に惑う
１９９５／６／８
幻想スケッチ「雨だれ」 ショパン・前奏曲第15番「雨だれ」より
しとしという雨が
やがて苦悩の声に変わる
彼方の国から
私の下へとやって来たそれらが
足許でうごめいている
真っ白な顔が
ガラス越しに伸び縮みし
私が奏でる音は次第に大きくなり
現実は壊れていく
１９９５／６／８
「ピエール・ブーレーズ」
しなやかな指の先から
音が確実に伸びてゆく
寸断された音符が
一つの曲線で繋がっていく
白衣を着けない医学者の
細やかな心の内で
くっきりとした輪郭を持つ時の流れが
静謐のまま過ぎてゆく
一点の混じり気もない
輝かしい最強音によって
新しい時代が拓かれてゆく
美しいなどと
陳腐な言葉を使ってはならない
私達は音の中に美しさを超えた
新たなるものを見出すだろう
目前の未来から流れ来る
冷たく鮮度の高い言葉の数々を
全ての感覚器を用いて
読み解かなくてはならない
豊かなエネルギーが
高度の見識の下に
数学的に整理されてゆく
その隙間をぬって
千年もの生命を有する
目に見えぬほど微細な
霊達が飛び散ってゆく
曲は今
急激な展開を見せつつある
チェロは有機的なうなりを上げ
フルートはすました鼻声で歌い
ヴァイオリンは輝きと透明度の高さをもって
存在を無に与え続ける
切り刻まれた音楽の背後から
再生する新たな響きを
私は感じる
１９９５／７／１
「みずうみ」
波はささやかに岸辺を洗う
風は行く先を私に告げる
雨と死の香りが
そっと舞い降りてくる
一歩一歩、足を進めるごとに
私の心に何かが突き刺さるのを感じる
詩心を
遙かに超越した沈黙が
反乱を繰り返している
私の歩みは何の意味も持たない
全てはもう崩れ去っている
見る影もなく
傷跡だけを残して
移ろい易い水面の色は
次第に青さを増してゆく
澄み切ったものがくすんだ色に飲み込まれる
私の心の中のように
１９９５／９／１
「パペーテ 一九九五年九月」
空は染まる
青く高い空が
黒と赤に容貌を変える
沈黙は無情をもって破られる
届かない声の数々が
やがて激しい潮（うしお）を呼ぶ
我々は裏切られた
我々の願いは空しいものと成りはてた
空を行く鳥のごとき自由は
もはや我々のものではない
燃え上がれ我々の信念よ
やつらを退けよ
我々の手に我々を回復するのだ
朝焼けは我々の進路を定める
静寂の海も我々を導く
限りある光の中を
忌まわしい別の光が駆け抜ける時
我々は叫ぶ
友よ、何故だ！ と
風は吹き乱れ
我々の想いを運ぶ
我々の想いもまた
風によって密度を増す
夜はその正体を顕わにする
所々で人々は自分を失う
無意味なその衝動は
無意味な結末を見る
人間など
何の意味もないものだ
自らを不幸にして
何事も省みない
夢の下流のその島で
悪夢は現象となる
花咲く丘は
一面の灰に変わる
二つの激流は
相手も自らをも
共に打ち砕く
それでも時は
無表情に過ぎてゆく
浜辺では子供達が戯れている
彼らの表情は無垢な輝きに溢れる
彼らには悲劇など想像出来ないのだ
我々は彼らの前で罪の苦みを味わう
我々の創造してきたもの
それらは恥ずべき事柄だ
澄んだ空と優しく懐かしい海
清々しい緑と穢れなき人々
これ以上
何を望む事がある
夜は明ける
寒々とした闇が徐々に溶けてゆく
我々はやり切れない感情のまま
日が昇るのを見る
何事も無かったかのように
また新鮮な日々が始まる
我々の叫びは
木霊のように再び我々の心の中に戻り
そして宿る
何も刻まれていない未来が
我々の目の前にある
忘れてはならない
我々に希望のあることを
我々は再び歩き出す
我々はまた一つの楽園を失った
この地上最高の宝石が
病んでいることを知った
我々の無力は
我々を呪った
自然もまた
我々を呪った
鳥は緩やかに空を舞い
魚は嬉しげに波間を駆け
さざ波はたおやかに時を刻む
平和を信じる人々は
今日という一日に感謝しつつ
通り過ぎる
花びらがそっと私の肩の上に
落ちる
儚い夢の中で
我々は何と戯れれば良いのか
突然
彼方で轟音が起こる
欺瞞に満ちた歌声が
各地で湧き起こる
海はその本来の色を失い
空は軋み始める
我々は裏切られたのだ
我々は深く息を吸い
風の嘆きに耳を傾け
大地の叫びに胸を痛める
そして無情な人々の影を
どこまでも追い掛ける
誰かの泣き声が水面を揺るがす
だが黄色い水面は無表情なまま
何も訴えはしない
我々は風の中で佇んでいる
陽（ひ）は山際にかかり
夕凪は黙り込む
遠く西の方で
凱歌が揚がる
しかしその方角は
深い影に覆われたままだ
陽は没した
あたりは闇の他は
何もない
我々は明日の来ることを願いつつ
三々五々家路に就く
波の音が幽かなカノンを奏で
ゆるやかな時が支配するこの島から
今日あるものが失われた
我々は忘れてはならない
今日という日のあったことを
我々は信じなければならない
幸せやそれを望む心を
今日もどこかで多くの人が消えた
あるいは死に、あるいは殺されて
世は悲劇に満ちている
何故人々はわかり合えないのか
喜びを忘れてしまったとでもいうのか
風は完全に止んだ
悲劇の確実な到来を思いつつ
我々は瞳を閉じた
眠るに堕ちる直前に
我々は微かな死の匂いを嗅いだ
１９９５／９／１０、１１
「微かに」
遠くから
微かな歌声が聞こえてくる
私は耳をすます
歌声が雲へと
吸い込まれてしまう前に
１９９５／９／１２
「舟歌」
いくつもの波を抜け
いくつもの風を越えて
あてどもなく漂う心の
沈み込むのを待つ
櫂から落ちる滴は
私の心の奥底の
秘かな憧れを
波立たせる
移ろい易い光と
気まぐれなままの影の
中を我々は通り過ぎてゆく
明け方に見る
夢の中を滑るがごとく
１９９５／９／２６
「私にはわからない」
私にはわからない
かつてはわかっていたかも知れないが
今はもうわからない
後には
何もない
私は空虚なのだ
私は昔
私だったのかも知れない
私は過去も
私でなかったのかも知れない
とにかく今
私は失われている
私にはわからない
いつのことだったかは忘れてしまったが
はるか以前
私は私を理解していたような
そんな気がする
しかし今は
私という男が
何者なのかという事も
まるでわからない
私は何かを
置き忘れたのだ
私にはわからない
私が今いるこの場所がどこなのか
まるでわからない
辺りには
何もなに
全ては無なのだ
私は今
私の中で消える
しかしそれが何故なのか
私にはわからない
１９９５／１０／１３
「海へ」
海へ
全てを忘れて
心を広げて
限りない沈黙と
未だ見ぬ希望へと
風の波を越えて
どこまでも
飛び続ける
１９９５／１０／１３
「灰色の雨の中で」
目を開けるとそこには常に
孤独が息を潜めている
灰色の雨の中で
私はあなたを探すのだけれど
深い霧に邪魔されて
見つけることは叶わない
奥深い林の中で
私は木にもたれ
あなたを思う
梢から滴る雨粒が
私に告げるものは何か
だが私は何一つ見いだせない
灰色の雨の中で
私は一つ深呼吸をして
書きかけのこの詩を
そっと破り捨てる
１９９６／２／５
「雪は舞っている」
雪は舞っている
白い光が夜の間を駆け
我々に沈黙を与える
沈黙は沈黙の中で
緩やかな歩みを続け
確かな時の流れは
ほんの一瞬、凝固し
闇の底に
埋没する
そしてささやかな純潔が
私の中に落ちてくる
１９９６／２／９
「こんな雪の日に」
こんな雪の日には
全てが純粋へと向かう
我々の一切の罪が許されたような
至福の時が訪れる
こんな雪の日には
全てが純粋に近付く
私は私から解放され
私を超えた私を喜ぶ
聖なる一条の光が
私のもとへと照らされたかのように
１９９６／２／９
「風と雨の丘」
………目覚めた
風が吹いていた
地平線の彼方から
淡いラベンダーの香りとともに
いや違う
私は目覚めてはいなかった
私の中を
青い雨が満たしていった
夢の中で
空は限りなく高く
木漏れ日は不確かで
風だけが現実だった
丘の上から
私は見下ろしていた
私の周りにあるのは
薄黄色い大地
紫色の山々
私はそれらが生むものを
深く深く吸い込んだ
私の記憶は
徐々に遡り始める
私は光の中で
静かにそして
最初の呼吸を始めていた
酸素は私の喉を伝い
次第に拡がって
私の体に充実をもたらした
私はそんな状態で
そっと立ち上がり
空の彼方を見上げ
ささやかな微笑みを浮かべた
眼を閉じると
誰かの声が聞こえた
その声はやがて歌となり
私の耳の中で
一つまた一つと弾けていった
私は風に身を任せて
少しずつ宙に浮かんでゆく
雨は私の顔をかすめ
下界へと落ちていった
夢は途絶える
青の時代が訪れた
私は私を失った
雨は冷酷に
私の顔へと降りかかる
誰かが泣いていた
誰かが叫んでいた
私は耳を塞ぎ
一目散に走り出した
空は傾き海は呻り
大地は回転し始める
死
薄曇りのある日
私は私の死体を発見した
私はそれを地下深くに埋めた
墓標を建て終わった時
日は没し夜は私へと
遠慮なく襲いかかってきた
私は逃げた
誰かが近付いてきた
私は振り返らなかった
気がつくと
私はまたあの
風と雨の丘に
一人佇んでいた
私は再び私の状態を保っていた
夕闇の中
誰かが私の背後に立っていた
私は一人ではなかった
私は歩き始めた
波の音が近かった
知らず知らずのうちに
私は海へと向かっていたのだ
私はあの丘を振り返り
再び目を閉じて
潮風の中に
揺られていた
１９９６／２／２５
「レクイエム 武満徹に」
引き潮となり
私と彼とは引き離されてゆく
白く透明な幕が
静かに引き落とされる
陽は死ぬ前の
ほんのわずかな斜光を
波間に投げかける
彼は沖へと遠ざかり
無数の鳥達が
彼を追いかけていった
私の歌は
風に溶けずに
彼のもとへと届くだろうか
あの、彼のみに許された
星と五角形の聖域のもとへと
レクイエム
永遠の静寂の中
虚ろな響きと
艶やかな旋律が
結末のない運動を始める
そして水平線の向こうへと
彼は消えた
１９９６／２／２５
「非現実の悪夢」
私が存在しない頃
私が生まれる以前
ある雪の日に
それは起こった
一国の首都の中心で
銃声が響き渡り
鮮血が雪を
赤に変えた
靴音のこだまを除いて
街は静寂の底に沈んだ
時折黒い影が街角を通り抜けた
死者は少なくとも三名いた
だがその死体も雪に覆われ
やがて見えなくなった
空は段々と暗くなっていった
雪も輝きを失い
その新鮮な白は
徐々に泥に侵食されていった
風が吹いた
何かが舞い降りてきた
白く薄いものだった
それを拾い上げた男の口から
何か青い粘々したものが吐き出され
辺りの雪は一瞬にして
青黒く変色した……
…………………
…………………
雪は溶けた
湯は輝いていた
だが街角では
再びあの影達が
頭をもたげ始めていた
気がつくと影は
街のあちこちを占拠し始めていた
彼らはまず子供を襲った
子供達は彼らによって
微笑みを失った
子供達は赤い太陽を信仰して
我々の言葉に耳をかさなくなった
霧が立ちこめて
我々は視覚を失った
熱に浮かされた人々は
憑かれたように西に向かって走ってゆく
影達は声をひそめて
我々のための鎮魂歌を歌っていた
群衆が橋のたもとで
にわかに騒ぎ始めた
１９９６／２／２６
「僕らは通り過ぎる」
僕らは通り過ぎる
愛も夢をも分かち合えぬままに
西風は嵐をはらみ
僕らは森へと逃げ込んだ
そして僕はあなたとはぐれ
いつしかあなたのことさえ忘れ
すれ違うことがあったとしても
もはや互いに気づくこともなく
ただ
青く澄んだ空と
なだらかな海の思い出だけが
僕らの心に残される
冷たい木洩れ日を受けて
僕はあなたを思うのだけれど
あなたはすでに形を成さず
波の下へと埋没する
１９９６／４／１１
「死、よりも深い安らぎ」
死、よりも深い安らぎが
私の下へと訪れるように
私は全霊を込めて祈るのだ
眠りこけた草の葉が
そっと欠伸をするような
そんな安らぎを願うのだ
死、よりも深く
死から遠い
そんな安らぎをと
１９９６／４／１８
「対話」
私は多くの声を聞いた
青白い空気の中を
目を閉じて進んでいた時に
それが何を意味し
何を語ろうとしていたのか
その時の私には
全くわからなかった
何年かが過ぎ
私は再び
この記憶の中の土地に
舞い戻ってきたのだ
以前とは違って
風は全くなかった
彼方の木の葉が
囁きあっているように聞こえるのは
私の幻聴なのか？
私は木陰に腰を下ろし
彼らの声がするのを待った
私の心は果てしない空へと
舞い上がり
私の体は地下深くへと
沈んだ
午後の日射しは強すぎて
彼らの声を拒んでしまった
私は歩き出す
もう二度と彼らの声を聞くことは
出来ないのだと悟りつつ
彼らはもう
私の傍らに来てはくれないのだ
彼らと私とは
いつの間にか互いに遠く
隔たってしまっていた
死が愛する二人を
引き離してしまうように
私は歩き出す
帰るべき場所は
余りにも遠い
１９９６／４／２７
「春は散る」
春は散る
あたかも砕けた氷のように
鋭い叫び声を残して
春の去った時
空は際限なく透き通り
風は何も告げず
いつか見た夢のような
甘苦い香りが
私の下へと漂ってくる
私はそれらに応えるため
声にならない声を
そっと投げ返す
私の中で何かが終わった
１９９６／５／１８
「最良の詩」
沈黙こそは最良の詩である
どんなに言葉を尽くしてみても
どんなに視線を交わしてみても
僕らがわかり合えることなど
高が知れている
本当に大切なものは
目に見えないように
あふれ出る詩心は
言葉にすることが叶わない
僕らは目を閉じて
ただ風に吹かれながら
自分の内部に耳をすまそう
詩心は波のように高く駆け上がり
鳥のようにサッと過ぎ去る
僕の中で僕を包み込む光景
それが詩
１９９６／６／５
「水底で」
水底で
私は息をひそめ
辺りに漂っている幽かな光に
目をこらす
前方からは
何かを引き裂くような音がする
そして奴らの気配が
こちらを窺う奴らの気配がする
私は胸に手を当てて
前方を凝視する
予感と不安
死期と生存
叫びと沈黙
それらに思いをはせながら
私は回り始める
遙かなる高みへと
私は浮かび始める
１９９６／６／２３
「私の中に」
私の中に
あなたが生まれた
そう
言葉にしてしまえば
平凡でしかない
いくつもの冬を越え
果てしない草原をさまよい
何度あなたと
すれ違ったか知れない
あなたの中に
私はいない
数え切れないほどの
人混みの中で
私はあなたを見つめるしかない
言葉にしてしまえば
実に平凡だ
だが、
私の中に
あなたは浸みて
やがて私を
溶かしてしまうだろう
そして私は
あなたの海の中で
いつまでも
まどろみ続けるだろう
１９９６／６／２９
「八月の色をなくした風景」
八月の色をなくした風景
それは絶えず私の中にあって
限りなく伸縮している
繰り返される
当て所のない叫び
風は消え
光は濁る
私は語るべき
何かを知らない
私は救うべき
誰をも知らない
時は不確かで
愛は死んだ
八月の色をなくした風景
今すぐにでも消し去りたい風景
１９９６／９／７
「草原にて」
広い広い
悲しくなるほど広い
草原の真ん中に
僕は一人
ポツンと立っている
それがどこであるのか
僕にはわからない
僕はあらゆる記憶をなくし
僕の前にはあらゆる可能性がある
遠い声に誘われて
僕は歩き出す
僕は最も僕でない時に
最も僕であるのだ
１９９６／９／２６
「遠い叫び、遠い声」
夜の気は募る
私は目を開き
青い闇だけを
じっと見つめている
遠くから
誰かの声が聞こえてきたような気がする
しかしその声はあまりに遠すぎて
何を語ろうとしているのか
知ることが出来ない
私は立ち上がって
彼方に見える
光に向かって
歩き始めた
記憶は不安な予感へと
傾き始めていた
１９９６／９／３０
「雨は降らせよ」
雨は降らせよ
風は吹かせよ
全てを委ねよ
君は何もしてはならない
君はその椅子にもたれて
じっと目を閉じているがいい
そしてそれらがやって来るのを
気長に待つのだ
雨は降らせよ
風は吹かせよ
全てを委ねよ
１９９６／９／３０
「私の場所」
私がその本来の場所を失ってから
長い月日が経とうとしている
あたかも古い記憶のように
それは徐々に
色を失っていく
遠い叫び、遠い声
それは私の叫びだ
私の声だ
私は私の
失われた声に
そっと耳を澄ます
深い眠りが
私に訪れるようにと願う
１９９６／１０／３
去江与司厳選詩集
