『愛の詩集』（彩図社刊）より
「愛する」 「うたかた」 「ヒゲナデシコ」 「亡き王女のために」 「もう会わない」 「逃げる女」 「短すぎた出会い」 「眠りの中を」
「レモン」 「めぐり逢い」 「発熱」 「あなたが降る」 「ガラス」 「後歌」 「凪の沈黙」 「Peace」 「ふいに沈黙」
八月の緑を濡らす朝露にも似て
ゆっくりとこぼれ落ちる流動的な愛を
束の間の光の中に
そっと解き放つ
言葉とそれが描くイメージから離れたとき
愛は確固たる形を手に入れる。
空へと投げ出された緩やかな感情が
やがて自由な翼をはためかせる
それが事実であるかどうか
真実の切っ先を隠しているかどうか
そんなことは
もはやどうでもいい
垂直に交わる二つの時間と
水平線の上を駆けるしどけない曲線
それが誰のものであろうと
それにいかなる名をつけようと
私達の過去と
これからの姿に
変化が生じるわけではない
愛する
心はいつも言葉に貼りついた。
数パーセントの嘘に裏切られる。
その優雅な凶器は
「愛する」と告げた瞬間から
私達の胸に細かないくつもの傷をつける
平凡でありふれていながら
唯一の深く、歪んだ傷を
だが空に一筋の弧を描く、その短い傷は
ゆったりと浮かぶ愛を切り裂き
その破片をこの大地に分け与える
愛のような
いくつもの出来事
その一つ一つを愛しながら
私はいつしか
遙かなる愛の地上に辿り着くことを夢見る
心と体とが溶け合い
細く赤い風が多くの囁きを
不変の立体へと変えてゆくような
そんな絶対的な地上へと
だから私は八月の朝露のような
ひんやりとしてつややかな
愛を
この手から空へと解き放つ
それがいつしかこの地平に降り注ぎ
いくつもの流れとなって
世界を駆け抜けることを願って
愛そのものの流れとなることを願って
『愛の詩集』（彩図社刊）より
「うたかた」
冷たい指先を洗う
光の弱い視線
この世の全てはうたかた
昼となく夜となく
凍り付いた羽衣を身にまとい
人は巡礼の旅に出る
表象の断絶と再生
希望の死滅と復活
断末魔の声は
地平線の彼方へと遠のく
遙かなる道の後先で
人は記憶を削り取り
赤茶けた大地を抉り
それを密かに埋葬した
黒衣の旅人が
その横を通り過ぎる
２００４年３月
水際に木は佇みて
穏やかな泉を見守る
生まれいず日々の泡
犀川の麗しき記憶
ここよりは明日を愛で
舵を差す東の空へと
君が名は万の代へと
語られる太平の流れ
百万の豊かなる歌
口ずさむ君を想いて
仮面の裏、君の表は
すこしだけいつも歪んで
隠してた生きる秘密を
天に地に君の姿は駆け
雨として潤いは舞い散る
雅なる北方の都
たなびくは夢の切れ端
手向けるは撫子の花
２００４／６／１１
昼と夜との交わるところ ワイン色の煌めき
あなたはその輝きを身に纏い、地平線を照らした
私は気づかなかった、光があなたそのものでないことに
あなたの輝きは 月の輝きで 太陽の前では力を失うのだと
太陽は死に絶えようとしていた あなたの過ちはそれに気づかなかったことだ
生きながら死したあなたは、その事実さえわからず
偽りの幽かな光で 人々を差し、世界を封じた
私は宣告する あなたの「死」を
あなたがしているのは救いではない 破壊なのだと
太陽はあなたに花束を手渡す 全てを溶かすようなあなたの笑顔
だが気づいているだろうか その花がアネモネであることを
あなたが為した罪の象徴であることを
２００６／３／１４
この世に消えぬものなどない
それがいかに光に満ちた足跡だろうが
あらゆるものは目隠しされた世界から
いつかは追放される
誰かの夢が誰かの夢に継ぎ足され
迷いの中で人は道を失う
出会いとは設定であり、運命は責任を持たない
爽やかな喪失の中で出会いを振り返るときに
あったこととなかったことを天秤にかけてはならない
それが出会ってしまったことの義務
もう会わないと決めたことの矜持
２００６／４／２３
「逃げる女」
声は
言葉は
追いつかない
求めても
待ち続けても
甲斐がない
彼女は遠ざかる
私の中の一部分が
時計の秒針によって
切り取られてしまったかのよう
不安定な心の明滅
さめない眠り
私は後
何年生きられるのだろう
１９９７／２／４
「短すぎた出会い」
春の名残の
桜色の外堀を見ながら
私は短すぎた出会いについて
思う
おそらくわたしはわたしの全責任を
負う必要はないのだろう
何が幸福で何が不幸かは
その一瞬の時の流れで決まるもの
思う通りに生きられないからといって
わたしはわたしの可能性を全て殺すわけにはいかない
空転する現実と着実な想像との間に
私は存在している
この伸ばした指先が
誰かに触れてくれればいいと思う
そしてこの次の出会いが
短いものにならないようにと
１９９７／２／９
「眠りの中を」
木々達が眠りに就くころ
僕の光は森の中を斜めに射しながら進む
僕は照らしたい
人々の春の終わりと
僕自身の冬の名残を
やがて現れる緑の息吹を
１９９９／２／２２
「レモン」
指先から
レモンが染みる
静脈を伝って
心の被膜をなで
瑞々しい光景を
細胞の一つ一つに
刻み込まんと欲して
１９９９／７／１１
「めぐり逢い」
移り気な天の思惟に
私はつけ込んだのかも知れない
罪の意識はなく
罰を考えたこともない
想像力を封印し
冴えていたはずの目を無理矢理閉じた
不可知なる
神秘の営みの声を
私は聴こうとはしなかった
弱さ
そうそれこそが私の弱さだった
私のいる土地を自分で選んだにも関わらず
私はそれを認めることが出来ないでいる
めぐり逢い
全ては天の配分
私からは遠い出来事だった
だが私は自らの手で
予定調和を打ち崩そうとし
結果
私は喪失というものがいかなることか
思い知らされたのだった
沈黙の中に
破滅の叫びが隠されていた
何たること！
私は自らの人生を
自らの手で閉ざしてしまったのだ
めぐり逢いという美名の下に
運命という暴言のために
最後の言葉
「私は私自身の影だった」
１９９９／７／３１
「発熱」
ミルク色に乱反射する
けだるい熱の中を泳ぎ
突き上げる確かな興奮にまどろむ時
世界は一瞬にして歪み
私はそれをたちどころに捨てる
太古から響いてくる
押し殺すようなドラムの音に
胸は高鳴り
予定調和的未来さえも
失って構わないと思う
柔らかな布がサッと引き上げられると
温かな雪が優しく出迎えてくれる
その白は目にまぶしく
束の間の春の到来を
そっと虹彩の奥に告げる
１９９９／４／４
「あなたが降る」
淡いみぞれのように
あなたが私に降り注ぐ
あなたのかけらを
あなたの酸素を
あなたの光を
そして闇を
わたしは胸に積もらせる
目に浮かぶいくつかの光景と
脳裏を横切る様々な瞬間が
溶け合い、溶け合い
やがて一つの甘美な映像を
世界に向けて映し出すことになるだろう
そしてわたしとあなたの境界が
いつか消えてしまったとしても
わたしがそれを後悔することは
決してないだろう
２０００／３／９
砕け散る
心のガラスで
あなたは自分の手を切った
鮮血がめまぐるしい歴史のように流れた
自らの領域と
世界の領分との間に
真っ赤な思いを吐き出しながら
あなたはゆっくりと崩れ落ちた
スローモーションのように
心を失ったかのように
あなたの瞳の奥で
未来が揺れていた
今にも消えそうな灯のように
頼りなく
淡々と
あなたは心のガラスで
自らを傷つけた
そして誰かを
それは危うい楯であり
鋭利なナイフでもあった
透き通った輝きは
時に冷酷な狂気を演出する
自らの瞳と
退路とを切り刻む
そして最後に
悲鳴のない終幕が訪れる
誰の意識からも遠い場所で
あなたは誰かのガラスを打ち砕きながら
静かに心から遠のいていく
空白の日々の中で
あなたはガラスの光を求め
地名を持たぬ場所へと
自らを追い詰めてしまった
再び打ち砕かれる日を怖れながら
最も危うい場所へと
追い詰められてしまった
２０００／３／９
孤独と孤独を寄せ合うことで
世界は平穏を保つことが出来る
たとえ一瞬先に待ち受けているものが
破滅であったとしても
人が孤独である限り
新しい詩が
次の世界の黎明を告げるだろう
２０００／１／９
波の上に
翼をなくした風が
自らと影と共に倒れ込む
研ぎ澄まされた沈黙の傍らを
歴史が厳かに通過する
名前を持たない数多くの瞬間が
幾億もの従者を引き連れて
ゆっくりとゆっくりと
波の上に
私達の沈黙は舞い下りる
この存在は
この瞬間は
名前を持たない私のもの
名前を持たないあなたのもの
語り尽くせぬほどの沈黙
音に揺らぐ心
２０００／３／３０
冬の終わりを告げる
オレンジ色の地平線から
駆け抜けた日々の足音が
木霊となって響いてくる
夕日を波が呑み込むと
ミントのような香りが
胸の奥でそっと立ち上る
我々は平穏の中にある
昨日を経て今日にいたり
今日の次に明日を思う
手で勝ち取ったものではない平和が
心臓を枕に横たわることを許す
そして愛を語り
平和を語り
満たされた世界の中で
終焉の日を思わない
２０００／３／２０
「ふいに沈黙」
君と僕との間を
月の光のようにくっきりと時は流れ
沈黙が二人の口に
人差し指を当てた
君の温もりは
僕の孤独の海原に
口づけする船のようにそっと進み
言葉は意識を失った影絵のように
ゆっくりと海底に沈んでいった
僕の方には
見知らぬ記憶の住人の手が置かれ
君の腕には
翼を休めに舞い下りた白い鳩がいる
こうして見つめ合ったまま二人は
月によって塑像となった伝説の恋人のように
身動き一つせず
割り当てられた沈黙の演技をこなし続けている
いつの日にか心の片隅に
その束の間の光景が
密度の濃い沈黙を伴いつつ
去来することになるだろう
一枚の絵のような目に見えない映像が
薄暗いスクリーンに映し出されたドラマが
同質性に整序されない
胸の内の平野で
何度も何度も
絶対的な一秒を
際限なく続く永遠の一瞬として
繰り返し
銀河の周縁を
淡い色へと変化させる
ことだろう
１９９９／１０／１２
去江与司厳選詩集
